昭和41年11月28日  夜の御理解



  いよいよ信心を身に付けておかなければならない。信心を自分のものにしておかなければならない、ということを、今日は朝からの御理解を頂いて、痛感しておるところへ、丁度私が昼下がろうとする所ところへ、お参りがあった。それはあの四国の松山というとこから。勿論こちらの方へ親戚があって、ここの話しを聞き是非一遍、おかげを頂きたいというその願いを持っておったんですけれども、(?)願いが叶って有り難いと、まぁいうわけでございました。
 四国の松山に、真の道教という、やはり金光様の御信心で、それから御本部に修行に行って、教師資格を持って、そしてその資格を返されて、そして真の道教の教祖のなられた方。非常にその霊徳の優れた方だったらしい。非常な四国の方ですから非常な表行なんかも、随分ひどいものだったらしい。ですから、三代金光様のお取り次ぎを頂いてから、いわゆるその、別派金光教が言わばでけた訳なんです。
 ですからその教義はどこまでも、金光教の教義の、御教えを基にして、そして真の道教団というのが生まれて、一時はやはり、信者が三千名からあったそうです。もう常日頃修行生だけが、やっぱり五六十人おったそうです、修行生だけがそれでも、出社が出けておるというのが、この福岡と甘木市か、あっちの方、二軒出けておるだけと言う事ですから、その修行生の方々が全部、皆取り次ぎ者になられたと言う訳ではないらしいですけどね。それがその、現代ではですね、朝の御祈念に二人か三人しかお参りがない。
 もうと亡くなられましてから、その奥様が教祖様になられて、二代教祖を継がれられる、それで息子さんも、まぁ立派な息子さんがおられるらしいですけれども、そう言う様なふうで御ひれい地に落ちてしまったもんですから、もうあんまり熱をいれられない。もう実にそれこそカンコ鳥が泣くような状態だと。そこでそのおりおりに話しがあって、椛目にというところに、こういうそのま御ヒレイのたつ、まぁ言葉を借ると、大変な徳者にあられるげな、というわけんです。
 そいでその今日は、ゆっくりしておられましたんですよね、徳者っち言うて、私は徳者、徳者でもないのですけれどもですね、「私の方の教祖様はですね、もう絶対、教祖の前では顔を上げてものを言う様な事はなかった」ち。そりゃぁ厳しい方だったらしいですね。二言目にはそんなことをしよったら命が飛ぶぞ」と言われる。ね、その言う事聞かなかったらですね、もうほんなこて命が飛んだそうですね。
 そんな亡くなったそうです。ですからもうもう言うならば有り難いけんお参りするのじゃなくて、もう恐いからお参りをすると言う様な、状態でございました。ね、やはりあの、様々なそれはあの、お道の教団の中にもやっぱり、これはですね教祖の神様の御信心、教祖の神様だけが金光大神ではなかった。いわゆる金光大神の御神格を受けられた方が、片岡次郎四郎先生ですか、ね、それやら明神様の御神格を頂かれた高橋富枝先生とか、また金光大神に(斉藤、又三郎?)だったかね、という先生がおられた。
 この斉藤又三郎なんかっていう先生が、もうそういう非常に激し(?)に振舞いした方だったらしいですから、修行も非常に激しかった助かりとももう(?)のように助かったらしいですけれどもやはり続きませんですね。それがいわゆるその祈念力そういう天地の徳をを受けた人が、言う事を神様が実行なさるわけですよね。俺の言う事聞かんともう命が飛ぶぞとだから言う事聞かん者な、やはり命をとらなければその「先生が仰る事は嘘だ」と言うな事になるのですから、やっぱそ言う事に結果はなっております。
 何十人の修行生が、沢山の山とか田畑を買われましてね、もう毎日毎日がその、その使役に出るわけなんです。修行生が全部(?)ならん者は地ならし、あの開墾する時なんかもですね、もんどんなにその弱くてもですね、もうつういっぱいどれい、担えば担うほど、おかげが頂けるっち言うんでもう、つういっぱいになうそうです。もうまるっきりそのまあ言うなら、奴隷のようなことだったらしいですね。
 それが有り難く頂いたもんは、やはりおかげ頂いたらしいです、そいでもう帰ったもんはやはり命がとんだ、と言うほどに、あらたかま良い意味には良い意味合いにおいて、あらたかだったらしいですね。私はその話しを聞かせて頂きながら、本当に私はおかげ頂かなければいけんな、丁度十二時になりましたから、あちらへでお食事を一緒にさしてもらってから、とても私の方はもうちょっ、私の方ではもう教祖様と御一緒に、ご飯殿頂くてんなんてん、もう私はここで先生のおかげ頂かれておられるという事は。
 もう初めてお目にかかった時からです、何かこう他人ちゃ思われんと言った様なものを感じたと言われるです。私がもう馬鹿んごとしとしとりますけんのっていってから、まぁその本当にやはりあの、生神様のごとあるとと思うて来たところが、やはり人間大坪であったと言うところです。けれどもその頂かれることはもう実にその、私が丁度その方が参ってくる前に、丁度ここに頂いておったことが、人力が必要なら人力人力が言わば、人力必要言うなら、お抱えの人力を雇うたら良いと言う様な事を頂くんですね。
 例えて言うなら、主人がなら主人がです、はぁもう何もかにも頭つっこんで、そげなんことなじんでです、ね、例え自分のほうは誰にでも任せきる、ね、外交のほうは誰にも任せきる、そして自分は、もう神力無限の、無限の神力に縋っておればいいのだと、というようなことを頂きました。私自身のことで言うならば、私が、「さぁあんたどんに、こうああばい」といっちょいっちょ出しゃばる、出しゃばると言うか、自分が先頭に立たなければならんと言った様な、先生のところではもう言わば。
 今日私御理解頂くのにですね、「人力では馬力しか出らん」と仰った。ね、馬力をかけると言いましょうが、馬力と言うのは馬の力と、言わば汚い力しか出りゃせんといこと。もうそれだけしか出らんって、人力では人間の力では。どんなに人力をかけ一生懸命のところで、その馬力が出るなぁあそこは、というだけの事なんだと。ですから中心では、ここになら私が、ただ無限の神力にお縋りして、神様の心に沿い奉る信心に一生懸命、私がなったら、もう末梢神経にいたるまで、言わば人力を捨てるとこに。
 人力を神様が分けて下さるのだと。その事を聞いたら非常に感る事が出来るんですね。夕べのことでもそうだと。神様のお心に沿い奉ると言った様な事じゃなくて、もうどうしてから教会を盛り返そう、もう人力を一生懸命使っておる。人間心じゃならん。その事やら今朝の御理解などをさっき頂いておりますお道の信心の命生命なんだと。実意丁寧神信心がでけなかったら、どんなに人が助かっても添えは、本と金光教じゃないのだと。これが中心、これを外したらもうお道の教祖の神様のご信心じゃないのだと。
 実意丁寧神新人というのは、天地日月の心になる事肝要なりと仰るように、天の心地の心を知ってその心に沿い奉る生き方にならして頂く事に努める事がお道の信心なんだと言う様な事なんかにでも、非常に感動を持って聞かれる、ね、熱心な方だ。それから今朝からの私が、御理解の「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をおかなければいけない」と言う様な事にも、「そうですね」。
 例えば人間の姿、形をしておるけれども、なら万物の霊長としての、お互い人間としての姿かたちはしておるけれどもなら万物の霊長としての値打ちのある、言わば生き方をしておるのが何人おるか。ね、教祖の神様はその人間万物の霊長である、その値打ちをいよいよ、発揮し、霊徳をいよいよ磨いていくことの道を教えておられるのだと。例えて言うならば、ね、人間以外の動物は、皆、例えば食べ物でも、まっそのまま、食べ物、そのまま食するのである。ね、味付けるみちを知らん。
 けれども、その(?)じゃないですね、その人間全部は、ね、人間あぁそのそれに味を付けるという知恵を頂いておる。甘いという辛いという、又はその調味の勉強をして、例えばこう言う様なものが、こう言う様な素晴らしい味合いと言った様な、味合いを付けることを、を覚えていく。いくら、言うなら、知恵のあるサル、サルがと言うても、ね、サルに三味線を教えるわけにはいかんです。第一ね動物には調子が分からんのだと、それでなかるのが人間だ。
 だから三味線弾く気はないけれども、稽古しようという気になら、誰でもそれこそ三味線三年と言われた時に、もう三年の稽古するなら誰でも、調子ぐらいは分かるようになるということ。これは言うならば人間の特徴なんだ。ね、だからそういう、例えば私共はです、ね、人間に与えられておるそういう知恵とか、欠点と言った様なものを本当に、それを使うて行かなければならない。例えばの様々な問題がある、難儀な問題がある、その難儀な問題に、例えば味を付けることによってです。
 「はぁこの難儀な問題のおかげでこういうおかげを頂いた、こういう力を頂いた」とその難儀に味を付ける道を教祖は教えておられるのだ。だから(?)はない、難はみかげであるということが分かってくるのである。私共がですね、その調子を分かることがです、どういうこっ生く調子生きていく調子、ね、私共の信心さして頂いて、物の見方が違う、考え方が変ってくる、人が腹かかいておるとに、信心さして頂きよる者は、「はぁおかげ頂いて有り難い」と思いよる。
 というようにです(?)その調子の取り方がです、調子が分かっておると、調子が出てくる、また調子におうた生き方が出来る。ね、いわゆるリズムカルな日常生活が、出けていく楽しゅう出けていくということ。そういう道を体得して初めて、人間が万物の霊長としての値打ちがあるんだと。ね、この値打ちを私は作ろうとしようとして、しまえるならばそれは、人間の面形はしておっても、万物の霊長としての値打ちは全然なかった一生で終わらなければならんのだと。
 折角この道においてです、人間としてこの世に生まれてきたのだから、ね、人間万物の霊長としての値打ちのある、そういう知恵力、ね、そういう力が自分一人ではない、他の人達にもそれが潤うていき、それが広まって行くと言う様な事に楽しみを感じさしてもらえる信心。ただお願いを、お取り次ぎを頂いてから、おかげを頂くというだけの信心に止まってはです、信心しよって、それは万物の霊長としての、霊徳というものが磨かれることはない。ね。
 本気で天地の心を心と、天地の心を分からしてもろうて、天地の心に沿い奉ろうとする、精進、そういう道を教えて頂くのである。まあそう言う様な事にはですね、もうそれこそ目を見張っても、初めてでありそりゃそうでしょう、私も今日初めて頂いた御理解なんですから。椛目では朝晩こうして御理解を説かして頂くんですけれどもね、もう十六年になりますけれども、ね、一遍だって同じ御理解である事がないんですよ。
 もうびっくりしておられる、それが記録に残っておる、それが記録に治められておると聞いてもういよいよびっくりしておられます。ですから私共はそういうおかげを頂かせて頂いて、おるんですけれどもです、私は後でじっくり考えたんです。どんなに椛目でおかげを頂いたって、御ヒレイに浴しておるというてもです、その御ヒレイを頂いていないとするなら、それは、やはり四国の真の道教と同じような結果に、成る様な事じゃなかろうかと言う事なんです。
 そうでしょうが、どんなに素晴らしい道を教えて頂いておっても、どんな素晴らしい有り難い教えを頂いておっても、その教えが、自分のものになっていなかったらどういうことになりますか。だから私が「死んだらお終いだ」と、いつも私が言うのはそれなんです、そういうあんた方はどうして、私の言う事が聞けんのか、私はこの前の前のお月次祭の時に、ほんっとにがっかりしたんです。もう少しぐらい私の言う事ば徹底して、入っていきよると思うたんです。ね。
 あの時間励行の話しなんですよ、あんなにも手を込んだ、例えばあぁその事をしてです、天地の親神様が、私共椛目全体の者に求めておられるという話しを、私は本当にあらゆる角度からした積りであった。私の願いを聞いて貰う為に私共はやはり神の願いに応えなければいけないと言うて、もう切々と私は皆さんにもうそれこそ頼む様に訴える様に、聞いて貰った所がその次のお月次祭にだって、あんまり同じ様な結果であった事をです。ははぁ是は私は16年間解いてきたけれど、この調子じゃなかろうかと。
 こっちから聞いてこっちの方へ抜けておるんじゃあなかろうか。それを行じようともしなければ、自分でそれを本気で、自分のものにしようという意欲がないのだと。いわゆる、本気で、あの三味線の素晴らしか、ね、あげんとは素晴らしかと、聞いておるだけであって自分でそれを、会得しよう体得しようという、意欲がないから、何時まで経っても調子一つが分からんのだと。ね。だから何時まで経っても難儀は難儀で、同じ所同じ難儀でまぁたぐるぐる回りをしておる。
 昨日した、あるもうほんとに難儀、今お参りしておられる方がです、ね、あるその形見分けのとでですね、自分がもらっていなかったとか貰ったと言う様な問題に、引っ掛ってから、ほんとに私はそれを聞いてからがっかりしてるんですね「もうそげなことが何になるの」っち、いいや私はやっぱりその誰々さんのものだから「下着いっちょでよかけんで、帯紐一本でいいけんで」「そればもろうて何になるの」って私が言うた「もうまちっと本気で限りなく美しゅうなろうや、と言いよる事が分からんの」と私。
 ここだからと言いようごたるけれども、分かっていないのであるから、又始めからやり直さなきゃならん、いい直すと今まで聞いとるけん、ほんにそうでしたって分かるんです。ほんとにもう私は、もうほんのたったその位な問題で、二晩眠れじゃった、もらわじゃった、ね、「それに私はおしげがありません、ほしゅうとじゃありません、だって向こうに(?)だ」って言う訳なんです。もう本当にもう私はもう可笑しくて可笑しくて「もうあんた椛目に参りしてなかろう」っちいうものが、言おうごたるけれども。
 それはその人一人だけじゃない、皆がそうだと言う事ですよ。小さい難儀な問題にぶつかったらもうと、どぉでんここをいかにに実意丁寧に、天地の心を心として頂いていけば問題ではない事をです、又問題にしておると言う事がです。そいで私はここん所ばっかり生まずたゆまずこりゃいよいよ根限り、解いて解いて解きぬかにゃいけんな、と言う事を改めて感じるのです、ね。私はその真の道教の現在、ね、何千人も信者を要しておられた、それこそ飛ぶ鳥を落とす様な勢いの、御ヒレイの事がです。
 現在ではもうそれこそ(?)を打ち交した、ね。そのことがその今の教祖様に、話をされるとです涙を流し、涙を流してもう本当に私が不徳だからと泣かれるそうです。けれどもその教祖の御信心というものを、頂いていなかった証拠、しかもその教祖の御信心、私その御本を読ませて頂いてから、もう至るとこで感じた事ですから、それを私本に書いておりますがね、この生き方ではおかげにゃならんと、おしいことだと私はその本に、また誰か読むだろうから書いております。
 その方の御理解集やらですね、その方のお伝記を、私は読まして頂いてから、それを感じましたです。ね、ですからどこまでもです、お道の信心は実意丁寧神信心というものがです。本当に自分のものになっておらなかったら、ね、駄目だと言う事ですよ。皆さんは、なら椛目の御ヒレイに浴しておられる、その御ヒレイに浴しておられるというだけではなくて、その御ヒレイそのものを、自分のものに頂いておかなければです駄目だと。これはその松山の真の道教ではない。
 椛目の御信心だって同じ様な事が言えるのではなかろうか。結果においてはといかに、「あっちの先生は違う」「もうあっちの先生はもう一から十までが、もう御理解、御理解力、御理解によってです、人が助かってきた」と言うてでもです、ね、そう自分のものにしていなかったら同じことでしょうが、理屈は同じことです。今朝のご理解から頂くとです、本気で私は私は体得しなければだめだと。
 ほんとにどの様な事柄、どの様な問題でもです、どの様な素晴らしい味でも付けれる道を、習っておるのであるから。その味を付けていくことをしなかったら、もうそれは人間以外の動物と、もう五十歩百歩であると。ね、そこんところをお互いが、本当思わせて頂いて、ね、霊長としての値打ちをです、いよいよ発揮さして頂いて、こそ初めて天地の親神様の、お喜び、金光大神のお喜びということにもなるのです。また私共がそれによっていよいよ神様の御信用を頂いていくことも出来るのです。
   どうぞ。